2023/12/25 00:40

須山農園のひろきです。
最近かっこいい肩書、通り名、異名が欲しいなと思ってます。
「麦わらの〇〇」「焔の錬金術師」的なあれです。
なんかかっこいいの思いついたら教えてください。

それでは、今日は振り返り編の一つ「須山農園-1.0」をお話ししようと思います。

この振り返り編では、現在の私(2023年12月時点)が思い出す、「ヒトの流れ」と「ひろきの心境」を中心に、当時を振り返っていきます。ただし、過去の心境と現在の気持ちが少し異なることもありますが、当時の実際の雰囲気を感じてもらえるような文章を目指しています。なお、当時のリアルな声や雰囲気は、YouTubeの「ほんわかファミリー」の動画でお楽しみいただけます。

出会いと出発


私は島根大学入学(2013)を機に、島根に住むようになりました。
当時から食を通して農業やその過程に興味を持っていました。
入学時「卒業後は農家になるんだ!」なんて志はなく、ただひたすらやりたいことに飛びついてみよう、自由でありたい、自分が活かされる生き方を探したい、みたいな心境に近かったと思います。

そんな大学1年生の前期後半ごろ、他学年も集まる とあるワークショップに参加した時、すごくおもしろい、心が動く人に出会いをしました。

その人は1学年先輩の農家の娘で
卒業後は農業をして知的障害や自閉症をもつ家族も泊まりやすいような農家民宿をしたいんだ、という素晴らしい志をもった人だったのです。その方は、地域イベントや農園のボランティアを企画して実行する、そんな行動力のある人で、当時の自分にとっては「かっこいいな」と単純に感じました。

その人物こそが、後の妻であるちほさんです。なんやかんやあって付き合い、お互いの夢や農業への想いを分かち合いながら、現在に至ります。

-デートは基本野菜の出荷や朝市へ-


彼女は1学年上だったので、私よりも1年早く卒業し、浜田にある有名な葉物有機栽培の農場で研修を受けることになったのですが、熱い中でも必死に食らいつきながら栽培、収穫、袋詰めなどなど頑張っていたそうです。

そんな矢先、ちほさんのお父さんが白血病になり入院することに。
しかしその頃、ちほさんのお父さんが白血病と診断され、入院することになりました。須山農園は当時から西条柿を中心に少量多品目で野菜を栽培していたため、ちほさん一人で農園を運営できるのか、助っ人が必要ではないかと心配し、中には中退してでも手伝おうかとまで考えていました。

ですが、お父さんの意向もあり、結局卒業をして、農協で臨時職員として働かせてもらうことになりました。
農業の経験も、社会経験も無い私に少しでも勉強してもらおう。今後の役に立つだろう。との思いあってのことだったんだと今思います。
(当時はそんな回りくどい事しなくても、俺でも農業をやれるんだ、とさえ思っていたように思います)

急変と新たなスタート


結局、1年半くらい農協やNPOで働きましたが続かず、離職し農業の道へ進むことに決意しました。
当時思い返せば、農業へ対する変な自信にしか満ち溢れておらず、そしてさほど人生における大きな決断をしたとさえ思っていなかったと思います。

また、その1年半の間に結婚をしていましたが
あんなに元気で農業が好きだったちほさんが、なんか疲れてる様子が多く、涙を見せることも多かったのです。

当時の私には「自分のやりたいことをやってるのになんでしんどいんだろう?」ぐらいの気持ちでしかなかったと思いますが、今ならその当時のちほさんのいろんな責任感からくる重圧がわかる気がします。体力的にもかなりハードだったと思います。
もうちょっとうまくサポートできていただろうかと、思うことがあります。

そんなことを気に掛けることすらできない自分に嫌気がさしますが、
それでも、当時の自分は離職したことで心が解放され、やっとやりたいことができるぞ、ちほさんと農業ができるぞ!いろんな仲間とおもしろい事やっていくぞ!みたいなテンションで日中は農作業、夜はYouTube用の動画編集、という生活を満喫していました。

そんな日々は急変します。

お義父さんが私の離職した3か月後に亡くなったのです。
入退院を繰り返していたものの、体調も回復してきた矢先のことでした。
須山農園にとって衝撃的なことでした。

私たちの須山農園はここから始まります。

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今回はここらへんで終わり、次回1年目以降のお話です。

日曜日に投稿予定が少しオーバーしてしまいましたがまた来週投稿予定です。