2023/12/31 23:12
前回のおさらい(須山農園−1.0)
島根大学入学後妻(ちほさん)と出会いこれからの農業について話し合いながら、明るい未来に突き進んでいくも、お義父さんの病気もあり、思わぬ形で世代交代で営農がスタートするというお話でした。
お義父さんの農業歴
1年目の話しに入る前にお義父さん(以下父)がどんな農業をしていたかについて、少しまとめたいと思います。
父は、根っからの農業好きで幼少期から母の手伝いがてら農作業をしていたそうです。
とはいっても、高校卒業後は庭師をしながらの兼業農家に。農業一本でやっていきたいとも言っていたそうですが、庭師の需要と子育てのこともありなかなか農業一本にはできなかったそう。
西条柿栽培は約40年前くらいにスタートし、柿のシーズン以外は、少量多品目で野菜や花などを栽培していました。
農薬はなるべく減らしたいという想いで経営をしていたそうで、規定量の五割以上減らした栽培を取り組み、キュウリやナスなど産直コーナーでも固定客がつくほどの腕前でした。
「農業は心を豊かにする」と話してくれたのを今でも忘れませんが、農作物を生産するだけでない、その過程から生まれる価値にも目を向けていたのは印象的でした。
1年目の挑戦と苦悩
父が亡くなったのは、干し柿加工真っ最中の10月下旬で、とりあえず柿は収穫しないとだめだし加工も同時並行で、合わせて事業継承についてや会計について(12月が年度締め)手続きも母やちほさんがしてくれてたと思うんですが、みんなバタバタしていてその当時の記憶はほとんどありません。
覚えているのは、葬儀にたくさんの人が参列していたことと、いろんな人が心配してくれて、農業に限らず支えてくれたことくらい。
程なくして父と共に農業を頑張ってきた母が鬱病に。
先日、母とこの当時の話をしていたら、母とちほさんと私3人で川の字になって少しの期間寝てたことあったよね、という話になったが私は全く持って忘れていた。
けれど、父と長時間過ごした家族にはそれだけの不安と寂しさが立ち込めていたんだなと今更気づきました。
当時の私にはその時の家族の辛さや不安はわかりかねていたように思います。
むしろ来年の作付けや経営をどうしようかということで頭がいっぱいでした。
結婚して1年もせずの婿養子だったこともありますが、かねてから須山農園を引き継ぎたいと言っていたちほさんが須山農園の代表に。
父のいない中、どういう風にやっていこうかという経営の話は必須でした。
というか、もともと私たちは「次のデートはあそこのイルミネーションを見に行こうよ♡」みたいな話よりも
「こういう農業いいよねぇ。」「この古民家すてきだから壊すのもったいない」みたいな農業経営や地域のあれこれについて話すことが大半でした。
そんなことが話し合える間柄だったので、今後の経営について考えるのは私にとってとても楽しみな時間でもあり、ちほさんを中心に経営を二人で進めていくには大切なことだったんです。
しかし、この当時経営やお金についての話が、ちほさんとどうもうまくいきませんでした。
もちろん話せる時もあるけれど、体調がすぐれないタイミングは日に日に増えていきました。
ちほさんの心労についてわからず、というか理解しようできてなかったと思います。
あれだけ楽しみにしていた経営のことや今後のことが話せるはずなのになんで話してくれないんだ!とさえ思っていました。
経営課題と主張
父の不在は思いのほか大きく、その上私はちほさんにもう一つの負荷をかけてしまっていました。
野菜の栽培を減農薬から栽培期間中は農薬を使用しない栽培に1年目から変えようという経営話を進めていたのです。今考えれば、農業の基礎的な技術も経験も無い中、父もいないし、潤沢な資金を持っているわけでもない状態でそんな挑戦すべきじゃなかったんだろうなと。もっと心が癒えて、農業のあれこれ、地域のあれこれを知ってからやっても良かったんじゃないかと思います。
何もちほさんを攻めようとしていたわけではないですが、少し私の言い分も話すと
①農薬使用における農家の負担について
②専業農家としてやっていく上での、柿栽培と少量多品目の産直出荷主体の経営について
③すでに事例はあるしやってみないとわからない
この3つです。
まずは③の言い分。理論は崩壊していますが、農薬を使わないくてもできる事例があるんだから、私たちもとりあえずやってみるしかなくない?という主張。
今考えると無茶苦茶で、自分ができる根拠にもなってないし、今の経営状況を考えられてるわけではなかったんだろうと思います。
まぁ、若気の至りというか、若さゆえの行動だったんだと思います。それで今があるとも言えますが、当初のちほさんにすればたまったもんじゃなかったはずです。
①の言い分についてですが、これには少し時を遡りまして、父が白血病で外出はもちろんのこと、外で土やらなにやら触れることができなかった時の話。今までは減農薬栽培だったため、ある程度キュウリやナスなど農薬を使用することがあったそうです。
冬ならまだしも、夏はとても暑く、ビニールハウス内はサウナ状態なわけです。そんな中、ちほさんや母が農薬散布を父の代わりにしたことがあって、母は一度熱中症になったことがありました。
ちほさんは体力があるものの、それでも心身共に疲れていたように思います。
農薬を使った野菜がダメだとは思いませんが、農薬散布により生産側が負荷を負いすぎる状況は、経営を継続していく上でも、どうしても避けたいと思っていました。
②について。松江市は他の市と比べて、農家の多くが市場出荷よりもスーパーマーケット等の産直コーナーに出荷することが多いのです。
産直コーナーでは多くの生産者が自分で価格を決定することができますが、味見もできないし、見た目で判断しかできない状態でどうやって差別化していくか?を考えたときに、農薬を使用しない有機的な栽培がいいんじゃないかと思っていました。
しかも、柿を主力にできるので野菜の少量多品目ならある程度失敗しても取り返せるだろうと。
こいう3つの主張をちほさんに伝えていました。が、やっぱり、今思うと負荷を大きくしていたなぁと思うのです。
経営話の行き詰まり
就農スタートから日に日にちほさんと喧嘩する頻度が増えていました。朝早くから一緒に起きて農作業しようと思っても、ちほさんはなかなか起きてくれず私がいらだってしまっていた時もありました。(ちほさんの方が1年先に農業をしていたし、手伝いもしていたので私よりもいっぱいのことを知っていたのです。聞かないとわからないこともいっぱいありました。)
なんで今まで一緒にやるのを楽しみにしてきた農業なのに、なんで僕一人がしてるんだ、なんで農業やこれからの話ができないんだ、楽しくないんか?と。
悶々としながら、それでも何とか農業の勉強しつつ
初めての農作業に身体はまだ慣れないものの
気温が少しずつ暖かくなることで農家のリズムが身についてきたそんな5月下旬
ちほさんが病院で鬱と診断されます。
-----
【続きは次回】
1年目の内容が多くなりましたので、2部編成にしてお届けします。