2024/02/11 18:11

今回は2023年就農5年目について書いていこうと思います。

その前に今までの振り返り

右も左もわからずとりあえず美味しい野菜を育てようとがむしゃらに働きつつも夫婦の連携がうまくいかない1年目

新しいメンバーが増えるも仕事をうまく生み出せずフル稼働、智帆さんの躁うつ病スタートで働き方・生き方についてよく考える2年目

雇用の難しさを実感しつつ、あしけんによる業務改善、計画等のオンライン化で情報共有がスムーズになった3年目

3年の栽培データの蓄積により野菜の秀品率が大幅改善、するも販売のあり方に満足できずイベント販売を増やした4年目

そんな過程を経て、5年目に突入していきます。

人員増に伴う組織改革と自由との葛藤

4人でやっていたところから7人に増えることになったので、西条柿の栽培と加工にもっと力を入れれるしいいなと思っていた反面、それまでの期間の仕事をどのように生み出そうかと悩んでいました。

基本的に、仕事があるところに来てもらうというよりは、その人が来るから仕事を生み出そう、そうすれば自発的に動きやすいだろうし、その人のやりたい事が実現しやすいかなと思っていました。


5年やってみて「自由」であればあるほど「不自由」な側面も出てくることがわかりました。

私個人としては、ある程度方向性が決まりつつ、自由に動けて考えてひたすら動く、みたいなのがやりやすかったし、上司から変な束縛されない方が良かった派だったんですが

迷惑をかけたくないとか、失敗したらどうしようとか、みたいなみんなの不安要素を潰せていなかったことが要因で、結局みんな判断と決断がしにくい状況を作り出していたんだなと徐々にわかってきました。


当農園の野菜は不揃いのものが多かったりしたので、野菜の袋詰・調整作業もあまり厳格なルール決めをせずその場その場で判断しながら4年間やってきました。出荷の状況や市場の状況、畑の状況で日々変わってくるので、その方が臨機応変に判断でき効率がいいなと思っていたからです。

でも誰しもがそれをできるわけでもなく、ある程度のルール、規格が明文化されていた方が動き易いんやだなと、この時はじめて気づきました。

ある程度仕分けの基準が決めてあったりすることで上達速度があがったり、ミスが減ったりするということもわかってきました。

「この人だからできる」から「どんな人でもできる」になる作業の一般化が進みました。

(情報共有の時間を増やして勉強会もしたりするようになりました。)

もう一つの大きな変化

2023年5月、あしけんが腰を傷めました。

前から身体を酷使してたのもありますが、里芋の定植作業でトドメを刺されたようです。

一ヶ月近く車に乗ることさえもしんどく、トラクターにも乗れないような日々が続きました。
今なお重いものをもったり、前かがみの姿勢がキツイそうなんですが、当時は尚の事慎重でした。

やれる範囲が狭まってしまった上、私生活にも影響が出ていたので、今までで1番辛かったんじゃないかなと思います。


今まで体力面は私とあしけんの二人でカバーしていたものですから、体力に頼った作業はことごとく進みが悪くなってしまいました。

「農作業は体力仕事が当たり前」

という頭を思いっきりぶん殴られたような感覚でした。
年寄りだからとか、体力がないからとかじゃなく、誰しもが思いっきり身体を動かせなくなる瞬間が来るんだなと、この時やっと気づきました。

後悔先に立たず。
後悔している場合じゃない。
次どうするか、どう防ぐか
それでもあしけんと仕事したいのは変わらなかったので(他のみんなにも言えることですが)、あれこれ方法を考える日々が続きました。

今なおベストな状態にはできてませんが、良くも悪くもこの事が大きなきっかけで
須山農園の体制が「体力勝負」みたいな状態から、いかにに「身体に無理せず」やれるようにするかの工夫開発がすすみました。

ちょっとした工夫、ちょっとした機械だけでその負担が減るんだったらめちゃくちゃいいやん、と考えるようになりました。


体力があるとついつい無理してやっちゃうんですが、いかに「私じゃなくてもできるか?」という視点は、人を雇用する上で持たないといけないんだなと考える1年でした。


悩んだことも多い一年でしたが8月には、ちほさんとあしけんで大山(鳥取県)にも登山できるようになっていたみたいです。

あと、大きなお金の動きと言えば、干し柿・梅干しの加工場の改修工事をしたことです。初めての大きなお金を借りて修繕したり、それこそ重い荷物をあげるリフトを導入したりしました。
でも、長い目で見たとき、あの時の判断は間違っていなかったなと思える投資になっているように思います。